人は誰も、生まれたばかりの時は言わんばかりの力で自分の手を握り締めている。
その手の中にはあらゆる可能性や才能が握られていて、手を開いた瞬間、それらのものがこぼれ落ちていく。
そのこぼれ落ちた可能性だとか才能を一生で一つ一つ拾い集めていくらしい。
こんな話を聞いたことがあります。
元ネタは忘れちゃったけど。
……漫画だったような気がしないでもない。
宝探しみたいだなぁって思いました。
だから、「才能がない」んじゃなくて「その才能をまだ拾えてない」のであって、「不可能」なんじゃなくて「可能性がまだどこかに転がっていて、それを見つけることができていない」だけなんだと思う。
そう考えたほうがずっと良いでしょう?
それに、一生なんてあっという間なんだから、落としたもの全部を拾うことができなくても不思議じゃないんだよ。
だから、できないことがあっても気にすることはないんだよ。
誰だってそうなのだから。
みんな、探している途中なんだよ。
途中で諦めたりしたら勿体無いよ。
もしかしたら諦めたその日に見つかるかもしれないのに。
そして忘れてはいけないことは、拾ったもの一つ一つを大切にするということ。
どんな些細なことでも、ね。
根っから悲観的な友達がいたら教えてあげよう!
知ってるのと知らないのとじゃ、やっぱ違うからなぁ。
私はその話をする時は「そんなこと思っている暇があるなら早く探しに行け!」的なニュアンスでもって伝えます。
とは言うものの、片手で余裕に数えられるくらいしか言ってませんが。
安西先生(スラムダンク)の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」は名言中の名言ですよね。
バスケだけじゃなくて、全てにおいて言えることだもの。
思い出しては「おお……」とダメージ受けてます。苦笑
この記事を書いている最中もずっと頭の中にありました。
何か、通じるものがあるなぁと思って。
話は少し変わりますが、言葉の使い分けって難しいですよね。
どんな言葉が聞き手にとっていい言葉なのかわかりませんもん。
その人の価値観によって言葉の重みって変わってきますからね。
だから、人に対してどの程度自分の思っていることを言えばいいのかたまに迷います。
相手が求めている言葉はなんとなしにわかっていてもそれを言ってあげるべきか否か、これが私には難しいんだな。
そのおかげで気が楽になるだろうけど、結局の所それでは意味がないようにも思えるし。
たいせつな人に対する言葉ほど、なかなか出てこなかったりします。
無責任なことは言えないもの。
そんな時が、たまにあります。
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